社会福祉法人 しが夢翔会

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業務執行理事のひとこと

2025年5月30日掲載

種(たね) ー つながる かたまる ひろがる

総括施設長 藤木 充

「今」出会う大津

まだこの年齢に至って、新しいことを経験することがある。腹筋がつったり、首の後ろの筋肉が、これまたつったり。テレビを見ていたNHKです。
障碍者の起業スタートアップ支援(面白いことをしているね)。当事者の思いに寄り添って、したいと思うことができるように。難しいことはスタッフが支えて。(さじ加減が大事)NHKなので肩書はNPO法人理事長 岩原勇気さんとの見出しですが、ブラフアートさんですね。

入所施設を出て地域で支援をしている。
地域にしみだす 地域を変える 地域に必要なものとなる、ですね。
きっとこの広がりとつながりが、大津の福祉。
障碍者に限らず、子供たちに朝食を用意する活動も。相変わらず面白い楽しい活動をするね。様々なところで広がりつながって大津の福祉となっている。 地域にとって必要なものとなっているのが大事。

この大津の福祉のつながりの中に、大津市もいる。
若干、好き嫌いもあるでしょうが、事業所間のコミュニケーションだけでなく、大津市の市としての取り組みと参加がとても重要な要素となっている。この大津の強いつながりの。
きちんと計画通りに指導監査を実施していることだけをとっても、大津のつながりの強さの大きな部分だと思う。

多分(と一応あいまいにしておきますが)大阪はもとより京都や兵庫も入所施設でも定期の指導監査は定期には来ないという。まして通所やホームの指導など見たことがないという。返戻は少ないことに越したことはないのですが、事業の精度を上げ、利用者にとって、より有用なものとなっていく道筋を事業者とともに進んでいるのだと思う。

つながりということ

つながりということではもう一つ、思いがけない出会いがありました。
先週、第二びわこ学園の旧職員さんから連絡をもらいました。
当時の古い資料の扱いについて話がしたいとのことでした。なんで私にと思いました。

その方は昭和41年の第二びわこ学園の開園から49年まで心理判定員をされていたそうです。
本来、昭和50年就職の私は、すれ違いのはずなのですが、私は就職前の2年間臨時職員で働いていたので、私が一方的に名前だけは知っているという存在でした。
なんで私、と再度思うわけですが、千葉から運転してこられた、90歳のSさんは昭和45年当時のケース会議資料など、たくさんの資料を持ってガルまでたずねていただきました。私がどこかに書いた組合づくりの話や現場の職員の話を目にされて、自宅にある段ボールに3箱以上ある資料を今後の重症児療育研究の歴史資料として残すにはどうしたらいいのかという相談でした。

第二びわこ学園の組合の話がありました。
私が昭和50年に就職したときの第二びわこ学園の組合は当時の福保労本部から分会解散の処分を受け、無くなっていました。なので私たちは新しく障碍者の暮らしの向上を綱領に挙げる組合を作ったのですが、それが解散となった旧組合の綱領とそっくりだということでした。

記憶を記録に ー 48年闘争 教育権闘争

その組合分会の解散を命じられるものが「48年闘争」と呼ばれる、腰痛の多発などを契機とする重症児施設の基本的な貧しさに対する厚労省座り込みなどの闘争を、組合本部の闘争方針に反して(過激に)実行した第二びわこの組合分会の闘争であった。それまでの教育権運動も含め、その後の重症児者療育や重症児者施設のありようそのものを決定づける闘争であったといえる。

処遇が決定的に転換する「直接介護比率1対1体制」(それまでの介護比率は1.5対1であった)や昭和54年の全員就学(それまで重度の障碍者は就学猶予免除として教育権をはく奪されていた)などが実現する。この48年闘争を過激に闘争し続けた第二びわこ学園の組合分会は組合本部とも対立し、分会は解散処分となる。
その解散が行われた昭和50年に就職した私たちは、たちまち、組合を作ることを迫られ、全くの独立した組合を結成することとなる。この当時の一連の組合活動が「組合機関紙あらぐさ」としてSさんのもとにあることが分かった。教育権だけでなく当時の利用者の思いを集約して利用者の手で発刊されていた、利用者の機関紙、はなたれもバックナンバーが資料としてあることが分かった。
「腰痛症と貧困」に押しつぶされる寸前の重症児施設のこと。だけど以降のにっこり作業所などの地域での重度障碍者支援につながる職員の様々な姿を生き生きと語られた。
この当時の貧しさは、肉は鯨、魚はさばばかりだったと語られた。

昭和50年は職員数の配置基準が大きく改善された年であり、50人を超える同期職員が就職するのだが(この人数なので、玉石混交で石の私も紛れ込めた、といつも思っている)、それ以降もまだまだ貧しい状況は続く。
当時取り組み始めた園外での合宿なども、基本的には職員が費用を負担することでしか成立しなかった。
私が事務長になった20年後も、物品の購入などに業者の選択などに色濃く影響が残っていた。貧しかった時代に支払いが遅れがちな学園を、変わらずお付き合いいただいた商店のことを忘れず、取引させていただいていた。

今思うこと

ガルに来て20数年が経過した。
いくつかの曲がり角。結節点がつながっているが、こぶになり少し曲がるイメージ。
ガルに着任する前日も自立支援体系への変更のための家族説明に追われていた。それまでの措置体系から契約へ。すぐに自立支援法の成立となった。

対象の変更、精神障害が加わったこと。単に拡大しただけではなく、精神障害が加わった意味は「治療の効果がなく症状が固定したもの」というこれまでの「障碍」の概念が通用しなくなる。
障碍像の転換。障害が症状の固定からひとり一人の生活上の困難そのものをいうことに変わった。
ひとり一人の困難に向き合うこと。
ずっとずっと前から、本人はどう思ってはるのやろう、というのはいつも園長から言われた言葉。
ひとり一人の姿に向き合って。

福祉の現場 みんな 100%で頑張っている
それでも 困難を抱える人を前にして
できない理由を挙げるのではなく
できる何かを持ち寄って がサービス調整
自立支援ということ

それぞれが今目の前にあることに精一杯向き合って
それから 一歩前へ

「誰か」がしなければならない ことであれば
「その誰か」になること

それが福祉の現場の人であること そのものである

京都・東山三十六峰の第33番、泉山のふもとにある泉涌寺で生まれ育ちました。意外と“街の子”です。
学生時代は、ほぼボランティアとアルバイトの日々。学生側のストライキや大学側のロックアウトが相次いだ時代、そうした中で、障がい者施設や保育所でアルバイトをしてきました。最後のアルバイト先であった第二びわこ学園に、昭和50年に就職。児童指導員として、13年間、直接介護の現場に携わりました。
その後、総務部長、事務長心得、地域事業部長を経て、やまびこ支援センター準備室へ。やまびこ副所長、第一びわこ学園事務長を務め、ここまでが、あっという間の30年でした。
その後はご存じのとおり、ステップ広場ガルの所長に就任。すみれ・楓・みゅう各ホームの開所に合わせて総括施設長を務めています。行動障害の地域ネットワークや重心通所の連絡会の立ち上げにも関わり、平成18年頃からは、自立支援協議会の発足に合わせて会長を務めています。

藤木 充
社会福祉法人 しが夢翔会
総括施設長(業務執行理事)